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イスラエル暦の新年

来週はイスラエル暦の新年ですね。一年間の反省をして来年の目標を立てるようです。 甘い一年であるように、りんごに蜂蜜をかけて食べる。 りんごは神秘思想でシェキナーをあらわすともいわれているようです。 来年は5777年 マイモニデスは法典の中で印象的な説明をしている。 ショファールについて、それはこう言っているようである。目覚めなさい、眠っているもの、人生の中で眠りに落ちてしまったものよ。自らの行為を反省しなさい。あなたの創造主を思い出しなさい。現実を避け、かわりに影を追いかけるもの。徳にも救いにもならないつまらぬものを求めて、年月を無駄にしないようにしなさい。自らの魂をよく見つめ、行いを正しなさい。不道徳な行いと考えを捨てるのです。 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 第三日 神はまた言われた。「天の下の水は一つ所に集まり、乾いた地が現れよ」。そのようになった。 神はその乾いた地を陸となずけられた。神は見て、良しとされた。 創世記   ベレシート より 新年  ローシュハシャナーがアダムの誕生日のようです。

wisdom 懸命で賢明な生き方

哲学を「philosophy」というが、philとはlave of のこと。sophiaとはwisdomのことである。 つまり、哲学とはlove  of wisdomを一語で言い換えた言葉。  タルムード 石角先生 より ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… wisdomはヘブライ語でフォフマ  知恵 叡智です。 ミシュナとかタルムードによく出てきます。 最近学んだミシュナでは、 ・ 知恵の垣根は沈黙 ・知恵のないところには。畏れはない。 ・知恵のないところには理解もない。 仕事仲間で飲み友達の田中さんと議論になると、田中さんは「あなたには哲学は負けない。」 とよくいいます。 勝ち負けで会話しているので、怒鳴り始めたり、 議論なのに口喧嘩になりそうになることもよくあります。 議論には勝ち負けがないと最近よく思います。 自分の考えを相手に理解してもらうことだと思います。 と言いながらも、最近iPhone7の予約電話で、「この電話で予約しないとキャンセルになります。」といわれて、自宅で電話を受けているので、仕事の予定がわからないと、3度繰り返しても同じ答え、あまりにも一方的なので大きい声を出してしまいました。 …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… ユダヤ人 女性政哲学者ハンナ アーレントの映画でも、同民族に非難されました。 ハンナ  アーレントはミシュナやタルムードを学ばなかったんですかね? でもすごい哲学です。現在の日本にも悪の平凡があるように思います。 ハンナ・アーレントの名言「悪の凡庸さ」 世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。 そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。 人間であることを拒絶した者なのです。 そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。 「考える」ということに一生を捧げた哲学者がいる。それがハンナ・アーレントだ。1906年にドイツに生まれたユダヤ人女性政治哲学者である。「全体主義とは何か?」という問に対して明確な答えを出した人物として有名であり、2013年には「凡庸なる悪」という映画として...

ミシュナ 復習 財産

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伝統はトーラーの垣根     一割税は富の垣根 誓いは浪費の垣根 知恵の垣根は沈黙 富の垣根、"富  自分の財産は    健康な体と時間 自由意志      選択けんは与えれている ハバットセミナー    手島先生 ……………………………………………………………………………………………………………………… 使うお金があっても健康でないと使い道がないですよね。 社会の価値観を変えるべきですね。 自由意志、とても自由なように感じますが、これから来る時間の選択ですね。 食べ物、仕事、余暇、寝る時間、起きる時間。 全てに時があるですかね。 トーラー  申命記 がモロッコより日本に来ました。 トーラーの中にエーデゥリーと書かれているようです。 地名か名前のようです。日本のバックメーカーが革製品を仕入に行き買ったみたいです。 本物に触れることは感動しますね。  ^_^?  why    なぜヘブライ語は一文字の長さが違うのか?   音符とか子音母音の区別ですかね。

ミシュナ アボット予習

ラビ エルアザル ベン アザリアはいう。 律法のないところに行儀はない。行儀のないところにも律法はない。 知恵のないところには。畏れはない。 知恵のないところには理解もない。 食を欠いては律法はない。律法を欠いては食もない。 彼はよくいう。 知恵が実践をしのいでいるすべての者は何に例えられようか。 枝が多く張っているが、根の少ない木に例えられよう。 ひとたび風が吹きくるとそれを根こそぎに倒してしまう。「彼は荒野に育つタマリスクのようであり、なにも良いことのくるのを見ない。荒野の干し上がった所に住み、人の住まない塩地にいる」 エレミヤ17-6  といわれている。 実践が知恵をしのいでいるすべての人は何に例えられようか。枝は少ないが、根がよく張っている木に例えられよう。たとえ全世界の風が吹きくるともその場所から動かすことがない。「彼は水のほとりに植えられた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は青く、ひでりの年も憂えることなく、実を結ぶことをやめない。  エレミヤ17-8   といわれている。 ……………………………………………………………………………………………………………………… エレミヤ書の解説のようですね。 行儀   律法   知恵   畏れは   理解   食  実践   木 根  枝  風  川  トーラーの実践ですかね?

正義 正義

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申命記  16ー20 「正義、正義だけを追い求めなければならない」 なぜここに二回も正義(ツェデク)が繰り返されているのか。 正義を追い求めることは人間の最も高い理想として大切だが、この正義はまた正義にかなった方法で追い求めなければならない。 すなわち「正義を正義で追い求めよ」の意。目標が正義にかなっていればそれに達する方法はどうでもいいわけではない。 さらに「正義」が2回繰り返されるということは、正義を追求するさい、一方的になってはいけないということも教えてくれている。常に自分達の方が正しいと主張する人がいるかと思うと、相手の意見を尊重しすぎるあまり自分の側にも正義があることを忘れてしまう人もいる。 二つの意見があって、両方とも正義にかなっている場合、この2つの意見の合意点を見つけるのは、二つの意見の片方を独断的に正しいとし、それを支持することよりは、はるかに難しい。 それでトーラーは「正義」を二度も繰り返して、「あなたは正義、正義(両方の正義)を追い求めなさい」と述べ、「そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜る地を所有するにいたるであろう」と約束しているのです 。           ラビ ピンハスの教え ……………………………………………………………………………………………………………………… 気づきました。 言葉が通じないのは、お互いに正義が違うからですね。 コミュニケーションミスは、自分の正義を人に押し付けるからですね。 相手を理解することも大切ですね。

タルムード

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「片足が折れれば両足でなくてよかったと神に感謝し、両足を折れば首の骨でなくてよかったと神に感謝する。」 「トーラーを学ぶことは、あらゆる捧げものにまさる。」 「他人になしたあやまちは、小さなものでも大きいものとみなせ。そして、他人があなたになしたあやまちは、たとえ大きくても、取るに足らぬものと考える」

哲学的合理主義

マイモニデス   スペイン生まれの哲学者は、人は神を知ることも、神がどのようなものであるかを知ることもできないが、神がどのようなものでないかを知ることだけはできると言った。 簡単に考えたいのですけど、頭が回りません。 神の存在は証明できないけど、神が存在しないことは証明できない? ですかね。 聖書(トーラー)の理解はここから始まるように感じます。

立派な人間とは?

「自分自身のことを考えてみて、わからない、と自分に向かって言える人間。」

祈り

Judaism の祈り 瞑想の祈り     神の御意について瞑想する。 崇拝の祈り     神の偉大さと不思議さについて。 感謝の祈り     神の恵みを、感謝と恩義を言葉にする。 確認の祈り     信仰と抱負を明確にする。 服従の祈り     工夫も力も尽きた時、重荷を神に投げかける。 懺悔の祈り     罪の意識がその罪を告白し、それを清めることを訴える。 抗議の祈り      世の不正に対する人間の憤りをぶちまける。 探求の祈り      迷い混乱したとき光と方向を求め、神を探し求める。 嘆願の祈り      心の希望、物質的あるいは精神的、自己あるいは他人の希望。 テヘリームに多くあるようです。 祈りが有効であるために、不可能なことを求めてはならない。  タルムードの2例。 妻がもうすぐ赤ん坊を生むという男「妻が出産する子供が男の子(あるいは女の子)でありますように」と祈ってはならない。この祈りは無意味。 もう一つ、ラビたちが厳しく戒めるのは、火事の警報を街中で聞いたときに、人は「私の家が火事になりませんように」と祈ってはならない。その理由は二つある、第一に、そのような祈りは実質的に、不幸が他人に降りかかることを願うものであり、それは非道徳的。 第二に、火事がすでにどこかで起こっているから。 要するに、人は事実を事実でなくなるように祈ってはならない。